当サイトは、2010年に30年間の歴史に幕を閉じた武蔵川部屋。武蔵丸・雅山といった個性的なキャラクターを排出した、ユニークな部屋の記念碑として立ち上げた武蔵川部屋ファンサイトです。

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大関

小結

平幕

十両

部屋概要・関係部屋

おすすめ情報

武蔵川部屋

雷系の元幕下鴨緑江の武蔵川親方が、1931年に中川親方(元雷部屋の鬼鹿毛)が亡くなったあと、残された弟子たちを引き取り一時期部屋を興した。三熊山美夫が十両に昇進したが、1933年に部屋を閉じ、三熊山も含めた弟子は鏡山部屋に移籍した。
その後、1980年(昭和55年)11月場所限りで引退した出羽海部屋(第50代横綱・佐田の山)所属の第57代横綱・三重ノ海は、年寄・山科(後に武蔵川に名跡変更)を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1981年(昭和56年)8月に出羽海部屋からの分家独立を許され武蔵川部屋を創設した。14代武蔵川は横綱・武蔵丸を育て上げたほか、大学相撲部出身者の勧誘を積極的に行い、幕下付出力士から大関・出島、大関・武双山、大関・雅山、小結・垣添などを育てた。
出羽海部屋は、中興の祖である5代出羽海(第19代横綱・常陸山)の「不許分家独立」の不文律により長年分家独立を認めなかったが、この武蔵川部屋は1919年(大正8年)に当時まだ現役の第27代横綱・栃木山が常陸山直々に許可を受けて春日野部屋を創設して以来、実に62年ぶりの円満独立だった。円満独立できた背景には、三重ノ海の人格を評価して武蔵川の年寄名跡を譲った13代武蔵川(前1・出羽ノ花、第4代日本相撲協会理事長、三重ノ海の出羽海部屋入門時の師匠でもあった)が、分家独立を全面バックアップしたことが挙げられる。
14代武蔵川(第57代横綱・三重ノ海)は、第10代日本相撲協会理事長在任中に体調を崩したことなどもあったが、以前から予定していた通り部屋の経営を18代藤島(大関・武双山)に禅譲した。なお、部屋継承に当たって武蔵川と藤島の年寄名跡を交換せず、2010年9月30日をもって武蔵川部屋から藤島部屋へと看板を掛け替えた。

親方:三重ノ海

三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、1948年2月4日 - )は、三重県松阪市出身で出羽海部屋所属の元大相撲力士、第57代横綱。本名は石山五郎(いしやま ごろう)、現役時代の体格は身長181cm、体重135kg。現在は年寄・14代武蔵川、現在日本相撲協会理事、前理事長(第10代2008年9月8日〜2010年8月12日)。血液型A型。
前廻しを引いての速攻が得意。ときには張り差しを見せることもあった。非力で身長・体重も平凡だったが、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。「相手はまだこれからと思っているうち、いつのまにかに土俵を割ってしまう」ことから「妖気のただよう」土俵ともいわれた。また同じ出羽海部屋の大先輩で、あの大横綱双葉山を69連勝でストップさせたヒーロー、元横綱の「安藝ノ海二世」と言われたこともある。
横綱琴櫻とはすべて大関昇進以前の対戦だったが分が良く、対戦成績は11勝7敗。琴櫻が横綱に昇進するまでは9勝3敗であった。また、この時期は大関戦の勝利が多く「大関キラー」の異名があった。 横綱輪島との対戦成績は16勝27敗。1977年9月場所までは6勝25敗とお客さん扱いだった。だが、大関角番だった11月場所、狂ったような張り手の連発で脳震盪を起こさせて寄り切り、立ち直りのきっかけとなった。以後の輪島戦は10勝2敗(決定戦を除く)と圧倒している。 横綱北の湖との対戦成績は13勝26敗。大関昇進の頃までは北の湖にとって苦手の一人とされ、対戦成績も互角であったが、1976年11月場所から15連敗と歯が立たなくなった。その間1978年1月場所、北の湖に対し奇策猫騙しを敢行したが失敗に終わった。だが、1979年5月場所には32連勝中の北の湖に立合い変化しての上手出し投げで16場所ぶりの勝利を挙げ、北の湖にとっては連勝ストップの痛い黒星となった。

経歴

松阪市立鎌田中学校卒業。小学校の頃はベルトを買う金もなく、母の腰巻のひもで代用していたというほどの貧窮家庭に育った。在学中に父を亡くし益々貧困に喘いだ為、力士を志した。中学卒業後は一度は就職したが相撲取りの夢を諦め切れず、出羽海部屋に入門し、1963年7月場所で初土俵を踏んだ。
入門後は二番出世で序二段に13場所もとどまるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったため期待されていなかった。それでも1967年9月場所に三段目優勝を果たしてからは幕下に定着して周囲にも期待されるようになった。1969年3月場所には十両に昇進、同年9月場所には新入幕を果たした。
入幕から6場所で小結に昇進して2横綱(大鵬・玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞した。その後概ね幕内上位に定着し、1971年11月場所に小結で11勝を挙げて技能賞を獲得してからは、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑(現放駒)らとともに大関候補とされるようになった。また、角界の将来を担うと考えられた若手を「三角大福」にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ぶこともあった。しかし、1972年後半から肝臓病が悪化し、1974年は入幕した1969年を除いて初めて1年間平幕で過ごした。その間、1974年9月場所11日目の前頭6枚目二子岳戦で引分を記録した。この一番以後、幕内の取組で引分は出ていない。
それでも1975年には回復して1月場所には平幕の地位で北の湖、輪島の両横綱を破り殊勲賞、翌3月場所にも輪島を破って連続で殊勲賞を受賞し関脇に復帰した。関脇で勝ち越しを続け、11月場所では綱取りの貴ノ花や横綱北の湖を破って13勝2敗で初めての幕内優勝を果たし、大関の座をつかんだ。
だが、新大関の1976年1月場所中に左足首を捻挫。それがもとで3月・5月と2場所連続で途中休場、3場所後の7月場所に関脇へ転落してしまった。しかし翌9月場所、関脇の地位で10勝を挙げ、1場所で大関に復帰を果たした。1969年7月場所に「大関の地位で、2場所連続負け越した場合は関脇へ降格。その降格直後の場所で、10勝以上の勝ち星を挙げれば大関復帰」という制度が出来ていたが、その最初の適用例だった。大関復活後も連敗癖を露呈してしばらくの間は2桁勝利すら挙げられず、2度の大関角番を経験するなど苦しい土俵が続いた。
それでも肝臓病の症状が改善した1978年ごろからは二桁勝利が増えて本来の力を出し始めた。1979年3月場所から10勝、13勝と続き、7月場所で14勝の優勝同点(輪島と優勝決定戦)の成績を挙げ横綱に推挙され、ワンチャンスで最高位をつかんだ。現在まで、大関陥落経験のある力士が横綱に昇進した唯一の例である。また、大関時代の勝率5割9分4厘は、戦後に横綱に昇進した力士としては最も低い勝率だった。昇進2、3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。1980年11月場所限りで現役を引退した後は年寄・山科を経て武蔵川を襲名し、出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を興した。
部屋の指導者としては横綱武蔵丸(現・振分)のほか武双山(現・藤島)・出島(現・大鳴戸)・雅山の三大関を送り出した。外国出身力士に元学生横綱と、序ノ口からの叩き上げの日本人力士でなかった点では今ひとつ評価が低いものの(他に三役力士として、共に小結の垣添=学生相撲出身・現役=、和歌乃山=「花の六三組」・退職=の叩き上げ力士も育成)、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。協会員としては役員待遇、監事、理事とステップアップをする。2002年の理事選では投票で湊親方(元小結・豊山)と9票で並ぶが、決選投票で湊親方を破る形で当選している。2006年2月より事業部長を務めていた。その後角界に不祥事が相次ぎ、大相撲力士大麻問題の処理を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代理事長に就任した。
なお2007年6月16日には、2002年の北の富士(現・NHK相撲解説者)以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りを、東京・台場のホテルグランパシフィックメリディアン(現ホテルグランパシフィック・ル・ダイバ)で行った。その際に太刀持ちを務めた力士は出島、露払いを務めた力士は雅山であり、それぞれ大関まで進んだ部屋の現役力士だった。
2010年に起きた大相撲野球賭博問題を受けて設置された特別調査委員会からは、弟子の普天王が野球賭博に関与し謹慎となり、その責任を取り(名古屋場所千秋楽)7月4日から7月25日、までの謹慎を勧告され、それを受け入れた為、7月4日理事長代行として村山弘義を立てている。7月19日には高血圧で既に1週間前より入院していたことが判明し、その後も胃癌の手術を受けるなど復帰の見通しがたたず、8月5日に復帰するまで村山がそのまま代行を続投した。8月12日午前に開かれた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には放駒輝門が選出された。

2010年9月30日に年寄名跡は交換せずに藤島親方に部屋を継承する形で、武蔵川部屋は藤島部屋と新たに名称が変更され、武蔵川は部屋の最高指導者の座からは退いた。

出羽海一門

大相撲の保守本流的存在。明治末期から大正時代に活躍した横綱常陸山谷右エ門の出羽海が一門の開祖である。規律・統制が厳しい一門で、出羽海部屋には「分家独立ご法度」の掟があり、横綱栃木山守也が春日野部屋として独立したことが唯一の例外であった。これに大坂相撲の流れを組む三保ヶ関部屋(元大関増位山大志郎)を合わせて、3家(出羽海部屋・春日野部屋・三保ヶ関部屋)の体制が長く続いた。
このご法度が解け、出羽海本家から武蔵川部屋(横綱三重ノ海剛司、現・藤島部屋)の分家が認められて以降、独立が相次いだ。
出羽海部屋(関脇鷲羽山佳和)系統からは武蔵川部屋・境川部屋(小結両国梶之助)・田子ノ浦部屋(前頭久島海啓太)の3部屋、春日野部屋(関脇栃乃和歌清隆)系統からは玉ノ井部屋(関脇栃東知頼)・入間川部屋(関脇栃司哲史)・千賀ノ浦部屋(関脇舛田山靖仁)の3部屋、三保ヶ関部屋(大関増位山太志郎)系統からは北の湖部屋(一代年寄・横綱北の湖敏満)・二十山部屋(大関北天佑勝彦、現在は閉鎖)・木瀬部屋(前頭肥後ノ海直哉、現在は閉鎖)・尾上部屋(小結濱ノ嶋啓志)の4部屋が独立している。
出羽海一門から輩出された日本相撲協会の理事長は、力士ではなかった初代を除く歴代9人のうち、出羽海秀光、武蔵川喜偉・春日野清隆・出羽海智敬・北の湖敏満・武蔵川晃偉、の6人であり、このことから同一門は、相撲界随一の名門とされている。