大谷信盛という政治家とは

大谷信盛

かつては日本を支える支柱の一つとして活動していた

民主党政権が誕生し、その後政治的不信により国民からの信用が失墜したことで再び国会が自民党主導の下で行動するようになって早数年となりました。当時はみんなが日本の景気というものが好転してくれればいいなぁという思いから民主党に投票したと思います。何よりそれまでに続いていた自民党を一度引き摺り下ろして考えてもらう、なんてことも考えていた人もいるのではないでしょうか。そんな思惑もさることながら、あっという間に民主党はその後東日本大震災においての対応などが問題視され、結局その後のは政権から再度下ろされる形で現在の自民党主導スタイルに切り替わるようになりました。アレですね、結局は私たちが選んだ結果として好転どころか、停滞ということもしないで、さらに後退するようになってしまったという一つの事実だけ生まれることになりましたが、それもやむ無しという風にして無理やり納得するしかないでしょう。

さて、そんな民主党時代の中で活躍をしていた一人の政治家のことを知っていますか?現在は2012年の衆議院選挙で落選してしまったために現在は民主党に現在も所属して政治活動を行なっている『大谷信盛』さんという政治家が、民主党政権時代に日本をよくするために働いていたことをご存知でしょうか。現在大谷さんは大阪府茨木市を中心に活動をしており、ゆくゆくはまた衆議院として活動できるようにして現役の議員を応援している、もしくは講演活動を行なって日々日本という国をもう一度支えるために日夜活動を続けています。今日はそんな大谷氏について書いていきますが、こちらにはなるべく政治色をにじみこませないように独自の視点から彼について記していきますので、ご容赦の程よろしくお願いします。

留学経験まであり

大谷氏は1962年12月4日、兵庫県姫路市にて生まれました。生粋の近畿地方で生まれ育ったことになりますので、現在でも大阪を中心として活動しているので地元の人たちからは一身に期待を背負って活動を続けています。そんな大谷氏は東洋大学付属姫時高等学校に進学・卒業をすると大阪商業大学小経済学部へと進学することになります。この頃は商経学部という政治とは少し違った世界への道を歩むための学部に進学していますね。ですが兵庫ではありますが、さすがに関西圏出身ということもあって商売というものには興味があったのかもしれません。ゆくゆくは商人として活動することも視野に入れていた可能性も十分にあります。

大阪商業大学を卒業後、大学とは提携などを行なっていない留学先『アメリカ合衆国ジョージ・ワシントン大学』大学院に留学し、国際関係論を専攻したのち、日本へと帰国してきました。この頃になると国規模での政治活動には興味を持っていたのかどうか分かりかねますが、もしかしたら専攻していく過程で大谷氏の内側に心境の変化があったのかも知れませんがとにもかくにもその後としてはきちんと卒業することに無事に成功して修士号を取得してくると、その後日本に戻ってきました。

ちなみにいうと、大谷さんは大阪商業大学ではボクシング部に入って青春に汗を流して元気よく相手を殴りつけていました。そんな大阪商業大学では運動系のクラブ活動が盛んに行なわれており、実はこちらの大学では数多くのプロのスポーツプレイヤーが出身校となっているのです。その中にはサッカー日本代表選手だったり、もしくは指導者としてチームを勝利へと導く立場にいた人など著名な人が沢山卒業後も大いに活動を行なっていた人が沢山いるのです。もしかしたら大谷氏もスポーツ選手として活動を続けていたらもしかしたら有名なスポーツプレイヤーとして、また違う世界へと進出していた可能性を秘めていたのです。人が歩く歴史というものは見てみると本当にさまざまな形で表現できるので見ていて飽きることはないでしょう。

政界へ

大谷氏はそのまますんなりと政界に進出した、というわけではなくジョージ・ワシントン大学大学院での留学を卒業した後はエディ・マイ社の政策調査・広報コンサルティングスタッフや新党さきがけの職員などを経験した経過の中で、大谷さんが始動するまでに時間は掛かりませんでした。しかし大谷さんの政界進出は少し難を要することになりました。初めての出馬は今から17年前の1996年に行なわれた第41回衆議院議員総選挙にて旧民主党からの公認を得ながら大阪府第9区から政界への足がかりを掴もうとしたが、当時の新進党の西田猛氏らに敗れてしまい、落選という苦い敗北を味わうことになってしまった。その後大谷氏が本格的に政界へと足を踏み込むことになったのは、初出馬にて敗北という苦汁を舐めてから4年後のことだった。2000年に行なわれた総選挙にて保守党からの公認を得て出馬した西田猛氏や、無所属から出馬した当時の現役大阪府茨木市の市長でもあった木本保平などの5候補などを破って、無事に初当選を果たすことに成功しました。この頃より本格的に政治家として活動するようになりました。この頃より選挙区から出馬していた西田氏と戦いを繰り広げることになります。

2003年の第43回衆議院議員総選挙にて、自由民主党に入党していた西田猛氏をここでも無事に破って再選することに成功しました。しかしその後に行なわれた2005年の総選挙では逆に西田氏に敗れてしまい、この時期には比例当選にも引っかからなかったために落選という二文字を味わわせられることになってしまいました。二人の戦いは今後も繰り広げられていくと思われていましたが、唐突に二人の戦いは終焉を迎えることになります。

それは2006年にて西田氏が胃癌のために50歳という若さで急逝することになってしまったのです。地元の人たちも二人がそれまでの数年間何度も戦っていたという事実を知っている分、そしてお互いに政界ではよきライバルとして戦いを繰り広げいてるように外部からは見えていたので、敵同士ではありますが非常に残念な思いに駆られてしまう人もいたのではないでしょうか。同じ年にはそんな西田氏に伴って出た穴を埋めるために補欠選挙に出馬するも、自民党が擁護した原田憲治氏に敗れてしまい、再び落選という敗北を飲み込まされることとなってしまいました。それまでの仇敵に対しての弔い合戦のような構図を見ることができますが、意気揚々と出馬したにも関わらずその後落選を帰すことになってしまったので大谷氏個人としては納得できない、もしくは真の意味で悔しい思いをしたことは間違いないでしょう。

環境省の重鎮へと出世、そして再び落選へ

そんな大谷氏の転機となったのが2009年のこと、この年に開催された第45回衆議院議員総選挙はまさにある意味では歴史的な改革が行なわれたとみんながそう思った瞬間でもありました。民主党がそれまで築き上げていた自民党主導政治を打破するように台頭し議席数を大量獲得に成功したことによってこの時にようやく日本はそれまでと違う世界へと歩いていくことが出来ると誰もが思ったかもしれません。そしてその流れに乗るようにして大谷氏も政界での地位を延ばしていくことに成功したのです。

この時に行なわれた総選挙でおいて民主党からの後ろ盾を元にして国民新党からの推薦をもって大阪9区から出馬し、自民党の原田憲治氏に塗られた泥を返上するようにして政界へと返り咲くことに成功するのであった。その後鳩山由紀夫内閣が誕生した後に環境省にて環境大臣政務官に任命されたことにより、名前を存在を全国規模に知ってもらえるようになりました。政務官として管直人内閣まで務める事になるが、その後民主党政治による地位失墜の影響を持って大谷氏もその後は政治家としては陰の存在になるようにその光を急速に失っていくことになります。東日本大震災やそれまでの公約で発表された内容を実行できない夢物語的な行動で国民からは不信の目で見られるようになってしまい、一気に民主党も信用に足る存在ではないと国民の誰もが見限るような態度に変貌してしまったのです。そんな中で行なわれた2012年の第46回総選挙において大谷氏も出馬するも民主党に対する印象が根こそぎ落ちてしまったという事実を覆すような努力も空しく、民主党公認と国民新党からの推薦を手に大阪9区から出馬するも落選してしまうのだった。

この時もし民主党が公約どおりの活動をきちんとしていたらまた違った結果になったと思いますが、それでも2009年のような影響力を伴う力を得ているかどうかという問題に関しては少し疑問になってしまうかもしれません。しかし民主党に所属しているために責任として党員全てに影響を及ぼしてしまうのは、自業自得というモノではないでしょうか。

その後大谷氏は現在も政治家としての活動を続けていますが政界からの引退を考えている様子はないので、次の選挙に出ることも視野に入れていることでしょう。まだまだ政界人としては若い人であるので今後また日本を支える人として活動していくことになる重要人物になる可能性は十分にあるといえます。これからも政治家として成長を続けていって欲しいものです。

大谷信盛氏と縁が深い人

西田猛氏

大谷信盛氏と縁が深い人として何名か紹介していこうと思いますが、やはり一番政界という意味では『西田猛』氏との縁は強い方ではないでしょうか。現在は病気のために故人となっていますが、生前の頃は自民党に所属して小泉改造内閣にて財務政務官を務めていた時期もあるほどの有力者になっていました。

そんな西田氏が初当選したのは1996年という、大谷氏も同じ年に初出馬した時に西田氏も同様に初出馬にして、大谷氏を破って初当選をすることになったのです。思えばこの年からある意味では大谷氏とは因縁めいた間柄になっていたといえるでしょう。同じ選挙区から出馬しているからぶつかり合うこともあると思いますが、初出馬した年も全く同じというのはどうしても違う視点から見れば宿命のライバルという印象を持ってしまうのは気のせいでしょうか。また違う視点からすれば、ここから妄想が働く要因になるとは思いますが大概現実の人間ではそこまで思考回路が作動することはないので置いておきましょう。

その後政治家として今後も活動していくことを期待されていましたが、2006年6月8日にて胃癌を患って帰らぬ人としてこの世から去ることになってしまいました。人の一生など儚いものですが、それでも平均寿命で計算しても早すぎる死に西田氏も遣り残した事はあったであろうと思えて仕方なく感じしてまう。

原田憲治

大谷氏と西田氏の決着が付かないままの因縁が終止符を強制的に打たれたことで、補欠選挙に出ることになった大谷氏であったがその時に出馬していた『原田憲治』氏との戦いに敗れてしまったことで、政界への復帰をかなえることは出来ませんでした。

さて、そんな大谷氏を撃退して2006年に当選することに成功した原田憲治さんとは、1948年6月9日生まれの政治家であり自民党に所属している。原田氏も西田氏の急逝に伴ってその年の補欠選挙に、自民党からの公認と公明党の推薦をもって出馬することになったのです。大谷氏からすれば決して負けることの出来ない戦いであったことは確かだったでしょう、ですがそんな大谷氏を僅差で下すことに成功した原田氏はその年で初当選することに成功したのでした。ちなみにこの時の補欠選挙は西田氏の後継を決めるための選挙であったのですが、実は原田氏の父親である『原田憲』氏が西田氏が初当選した1996年に当選した際に、当時原田憲氏が有力といわれていた選挙戦にて見事勝利を収めていたのです。その後原田憲氏は肺炎のために翌年帰らぬ人となってしまい、リベンジを果たすことは出来なかった。原田氏にとっては父親を弔うというどころではなく、父を下した相手の後継者として政界へと進出してしまうことになったとはなんとも皮肉な話といえるでしょう。当人からすれば自分には関係のないことだと思えるかもしれませんが、運命めいた戦いという意味合いで考えたときには誰もが大谷氏の勝利を望んでいたのかもしれません。

しかし原田氏の政治家としての活動はすぐさま議席を失ってしまったことで一度は政界から身を引く形になってしまいましたが、その後2012年に行なわれた総選挙では無事に当選することに成功して返り咲くことに成功したのです。この時も大谷氏よりも得票数を獲得していたという事実から考えると、今後大谷氏にとっては最大のライバルになる可能性は十分に高いといえるのではないでしょうか。